「Very Very Sweet Girl」  その@


 俺、神崎夏目(かんざき なつめ)が氷室雪香(ひむろ せつか)と会ったのは大学三年の冬の時。コートを羽織らないと凍えそうな、そんな寒い日だった。
 きっかけは大学の授業で偶然隣同士になった事だった。
 その授業は退屈を絵に描いたような授業で、俺は半分ウトウトしながら、その授業を受けていた。室内は程よく暖房が効いていて、それがより眠気を誘っていた。そんな時、隣に座っていたのが雪香だった。席一つ分置いて、雪香も大きなあくびをしていた。彼女を見た時、ほんのり甘い香りを感じた。何の匂いなのかはよく変わらなかったが、チョコレートのような香りを、彼女から感じた。
 甘そうな女。それが雪香の第一印象だった。
「‥‥ねえ、黒板の文字、読める?」
 それが彼女が初めて俺にかけてきた言葉だった。
「読めん。あれは日本語なのか?」
「私が思うに、違うと思うな」
「何故、そうだと思うんだ?」
「だって、日本人の私が読めないんだもん」
「うむ。日本人の俺にも読めん。やっぱりあれは日本語じゃないな。うん」
「‥‥はっ! ちょいとおにいさん」
「何だね? お嬢ちゃん」
「私達が今、手に持っている本は何ざんしょ?」
「‥‥中国語口座初級編」
「どおりで読めないわけですね、おにいさん」
「うむ。というか、何故俺達は気づかなかったのだろう?」
「‥‥真剣に授業受けてないからじゃないですか?」
「おおっ、お嬢さん、あなたもですか」
「おおっ、おにいさん、あなたもですか」
 という、よくわけの分からない会話で、俺と雪香は何故だかすっかり意気投合してしまった。いや、今思えば、こんなわけの分からない会話が最初から出来たのだから、息が合うのは当然だったのかもしれない。
 俺と雪香はその会話をきっかけにしてよく話すようになった。そして、お互い彼氏彼女と呼べる人がいない事を知り、ちょうどいい、という感じで付き合う事になった。お互い、何の緊張感も無く付き合う事になった。
 初めて言葉を交わしてから付き合うまで、何と三日だった。
 そんな即興で出来たカップルなんて長続きするはずがない、と思う人もいるだろう。しかし、俺と雪香はそれから二ヵ月経っても別れなかった。いや、出会った時以上に親密な関係になっていた。
「ちょいと夏目殿」
「んっ?」
「今日のA定食は唐揚げ定食、B定食は春巻定食なんですわ」
「で?」
「どっちが美味しいと思う?」
「唐揚げ定食」
「んじゃ、春巻定食にしますわ」
「何故に!?」
「だって、唐揚げ定食は夏目先輩が頼むんでしょ? だったら、私は春巻定食頼んだ方が得じゃないですか」
「・・・俺が手に持ってる物、分かる?」
「天丼」
 という会話が普段の会話という、まさに息のぴったり(?)のカップルになっていたのである。
 雪香は俺より二つ年下だ。だから、俺の事を「先輩」と呼ぶ。でも、いつも敬語で話すわけじゃない。時と場合によって語尾が違う。不思議だが、それが雪香らしいとも思った。
 雪香は一言で言うと可愛い女の子だ。女子大生、という肩書きがまったく似合わない。女子高生と言っても十分にまかり通るような姿格好だ。大きめ瞳に、頭の後ろで一つにまとまっている長めの薄茶色の髪の毛。小さな体に、アニメの声優っぽい声。一緒にいると兄妹に間違われる事もしばしばだが、雪香の場合、高校生以上の男と並んだら誰とでも兄妹に見られてしまうだろうと俺は思う。
 がしかし、雪香にはそれ以上の特徴があった。それは特殊とも言える特徴だった。それは出会った時から感じていたあの“匂い”だった。
 匂いと聞くとあまりいいイメージの湧かない方もいるみたいだが、雪香の場合は違う。彼女の体から出る匂いは少し溶けたチョコレートみたいに甘くて、小春日和なんかに臭ぐとすぐに眠くなってしまいそうな、そんな匂いだった。
 出会った時は、何かそういう香水でもつけているんだな、と思っていた。で、その事を本人に聞いてみると、何とも不思議な答えが返ってきた。
「ああっ、この匂いですか。別に香水とかつけてるわけじゃないんですよ。何て言えばいいんですかね。一言で言うなら、私の体から出ている匂いって言うんですか」
「体から‥‥出てる? お菓子みたいな匂いが?」
「そうなんです。ほら、友達の家とかに行くと、その家の匂いっていうのがあるじゃないですか? 私の場合、その匂いが偶然お菓子みたいな匂いだったわけです」
「‥‥そんな事、あるのか?」
「目の前に実例があるんだから信じてください」
 と、彼女は言うのだった。にわかに信じられない話だったが、それが一番しっくりくる理由だとも思った。ならば、毎日会う度にそんな匂いがするのも納得出来る。しかし、偶然お菓子っぽい匂いでした、というのも何だかなあ、と思う。
 しかし、体に別に異常は無いみたいだし、周りの人から何か言われる事も無かったので、その理由についてはそれ以上聞こうとはしなかった。
 一緒にご飯を食べる時も、映画を観に行く時も、いつも雪香からはその豊潤な香りが漂っていた。そのせいなのか、俺の感じる夏目はその外見よりもずっと大人っぽく感じた。
 目を閉じると、香水ムンムンのお姉さん(勿論、ランジェリー姿)が浮かぶ。でも、目を開けると俺の肩くらいまでしか身長のない女が、目をクリクリとさせてこちらを見ている。そのギャップが何とも楽しかった。
 もっとも、それを感じていたのは俺だけだった。周りの友達は毎日雪香と会っていたわけではないので、匂いの事までは気がつかなかった。
「いい匂いがするよな、お前の彼女」
 と言われた事はあったが、まさかそれが体から直接出ている匂いだとは夢にも思わないだろう。
 しかし、その不思議な匂いの正体が何なのか、それはまったく分からなかった。お菓子っぽいとさっきから言っているが、実際、その匂いに近い香りを持つお菓子を食べたわけではない。強いて言うならチョコレートのような匂いだが、ちょっとそれとも違う気がする。ただ甘いからお菓子っぽいなと思っただけである。
 その疑問は日を追う毎に俺の頭を支配していった。しかし、何度その事を雪香に聞いても、彼女はこう答えるのだった。
「へへっ、さあて、何の匂いでしょう?」
 と。


 ある日の事だった。授業の後、一緒にご飯を食べようと大学近くのレストランに行った時の事だった。その日は特に寒く、俺はシャツにセーター、更にその上にダボダボのコートを羽織らないと耐えられないような寒さの日だった。
 しかし、雪香の方はそんな重ね着はしてなく、薄布のYシャツとこれまた薄そうなスカートという軽めの服装だった。まあ、名前が「氷室 雪香」くらいだから、寒いのは得意なのだろう、とその時の俺は簡単に思っていた。
 それが雪香の匂いと重要な関係があるなど、その時の俺は知りもしなかった。
 時間は五時かそこらだったので、店内は静かな雰囲気だった。俺と雪香はウエイトレスに案内され入り口から離れた喫煙席に座った。雪香は吸わないが、俺は食後の一服は欠かせない男だった。
 室内は外は違い相当暖かかった。俺はコートを脱ぐ。すると雪香も一枚上を脱ぐ。薄布のYシャツの下は胸の開いたワンピースだった。この寒い日に何故ワンピースなんか、と俺は思ったが、そのワンピースの胸元がこちらがゾクリとするくらい開かれてセクシー(彼女の場合は可愛いと言うべきか)だったので、俺はあえてその質問はせず、隙を見てはその胸元をチラチラと見ては目の保養をさせてもらった。
「何頼む?」
 そんな視線に気づきもしない雪香は、大きな目をこちらに向けて訊ねる。
「スパゲッティ」
「んじゃ、私はサンドイッチとフルーツパフェ」
「金は自分持ちだからな」
「ええっ! おごってくれるんじゃないの?」
「給料日前だからダメ」
「・・・・最悪」
 わざと怒ったような顔をして雪香はすねてみせる。その時、雪香からはレモンに似た香りが漂っていた。
 ウエイトレスを呼んでメニューを告げ、料理が来るまでの間、俺はポケットから取り出した煙草に火をつけて、息を吸い込んだ。
「なあ、雪香」
「んっ?」
「‥‥もうそろそろ教えてくれよ」
「何を?」
「お前の匂いの正体」
 雪香と付き合いだしてから、もう四ヵ月が過ぎようとしていた。喉に突っかかった魚の骨のように、その匂いの事は頭の隅で気になっていた。でも、相変わらずその正体は分からないでいた。
 俺が訊ねると、雪香はまたいつもの含み笑いを見せた。明らかに俺が悩んでいるのを楽しんでいるような顔だ。
「何だと思う?」
 俺は眉をしかめて煙草の煙を一気に吐き出す。
「もう四ヵ月だぜ。エッチな事じゃねえんだから、もったいぶらなくてもいいじゃないか。減るもんじゃないし」
「エッチも減らないわねぇ。もったいぶるけど」
「‥‥‥悪党め」
 俺がそう吐き捨てると、雪香はケケケッと笑った。
 その後、料理が来て、俺はその匂いの話をするのをやめた。あの顔の雪香は絶対に匂いの正体を教えてくれない。俺はいい加減頭に来ていたが、怒鳴れば答えが返ってくるものでもなかったし、何よりこんな事で怒るのも格好悪い。
 スパゲッティとサンドイッチが先に来て、パフェは食後に来ます、とウエイトレスは言っていた。
 そして、二品を食べ終えた所に、そのパフェがやってきた。俺は別に甘いものが嫌いなわけじゃないが、目の前にあるような特大サイズのものを一人でがっつきたいと思う程でもなかった。しかし、雪香は大の甘党でサンドイッチを食べた後でも嬉しそうな顔をして、そのパフェを食べだした。
 そのパフェは珍しい果物の果実を入れている、というのが売りらしく、細長い入れ物の中にアイスとチョコ、クリームに挟まれながら、透明や薄黄色した果物の果実が詰まっていた。
「それ、どんな果物入ってるの?」
 俺がそう聞くと、雪香はおもむろに柄の長いスプーンを入れ物の奥深くまで差し込み、山盛りのパフェを俺の口に運んでくれた。
 俺は実は雪香の匂いの正体を調べる為に、色々な匂いを研究していた。特に果物やお菓子類だ。だから、口の中に広がるアイスの味の片隅にいくつかの果物の味を確認する事が出来た。ブルーベリーと、ラフランスとライチの味だった。
「‥‥ブルーベリーとラフランス、ライチが入ってるな」
「凄い! よく分かるね」
 どうやら全問正解だったらしく、雪香は目を丸くして驚く。俺が匂いの研究をしてる事を雪香は知らない。四ヵ月も焦らされているので、どうしても自分の力だけで匂いの正体を突き止め、雪香を驚かせてやりたかったからだ。
「まあな。俺はお前より頭がいいから」
「初耳だわ。でも、このパフェって珍しい果物が入ってる事で有名なのよ。それをサラッと言い当てるところは、凄いと思いますわ、先輩殿」
 そう言いながらも、雪香はパクパクとパフェを減らしていった。
 俺はその時、その中で雪香の香りと似たようなものがあるのを感じていた。
「‥‥ブルーベリー」
「んっ? 何が?」
 俺の呟きに、雪香は口にスプーンを入れたまま、上目遣いで俺を見た。
「お前の匂い‥‥ブルーベリーな気がする。どうだ、当たってるか?」
 何の根拠も無いのに、俺はそれが正解な気がしてならなかった。俺は身を乗り出して、雪香を凝視する。雪香は一度あさっての方向を見ると、またいつものはぐらかそうとするような、悪戯な笑みを浮かべた。
「外れです」
「‥‥マジ?」
「マジです」
「嘘じゃないだろうな?」
「嘘じゃないです」
「・・・・あっそう」
 その返事に、俺はガックリと項垂れてしまう。まあ、はっきりと当たっているか外れているか言ってくれた事は有り難かったが、違うとなるとやはりガックリしてしまう。と言う事は果物ではないのだろうか。ならば、お菓子類か? しかし、お菓子なんてとんでもない程の種類がある。果物よりも、だ。その中からこいつの匂いを探すなんて気が遠くなる。
「ねえ、先輩」
 肩を落とし、プカプカと煙草をふかす俺に、雪香がさっきまでとは少し違う、真剣っぽい笑顔でこちらを見た。その時にはもうブルーベリーの匂いは感じず、身の締まったライチみたいな、そんな匂いがした。‥‥やっぱ果物?
「何だよ」
「‥‥そんなに知りたい?」
「知りたい」
「‥‥もうそろそろ分かると思うから。それまで待っててくださいよ」
 そこまで言うと、再び雪香は普段見る、何も考えていないような顔に戻り、残りのパフェを名残惜しそうに口に運んだ。似たような事はこれまでにも何度も言われていた。しかし、何故だか今日のこの台詞だけは妙に俺の心に残った。


 あれから半月が経った。そろそろ分かる、と雪香は言っていたが別段何も変わった事など無かった。関係が悪くなる、という事は無かったが、俺が少し苛立っていたのは事実だった。
 そんな時だった。その日の授業が終わると、雪香が俺にこう言った。
「今日、泊まりに行っていいですか?」
 雪香が俺の家に来るのは、その日が初めての事ではなかった。一緒に借りたビデオを見たりしに、ちょくちょくと来ていた。しかし、「泊まりに行っていいですか?」と言われたのは今日が初めてだった。
 俺は女性との経験が無かった。雪香が家に来る度に今日こそは、とドキドキしていたものだったが、雪香の様子がいつもと何も変わらない、つまり、エッチな雰囲気になどまったくならなかったので、何だかそういう気も失せていた。
 しかし、今日はその言葉が示す通り、いつもとは違っていたので、俺はそう言われた時、心臓がバグンと高鳴った。勿論、断りなどしなかった。


次のページへ   ジャンルへ戻る